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  <title type="text">人物史</title>
  <subtitle type="html">-世界の偉人達-</subtitle>
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  <updated>2011-12-21T17:19:28+09:00</updated>
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    <published>2011-12-16T19:36:13+09:00</published> 
    <updated>2011-12-16T19:36:13+09:00</updated> 
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    <title>ハルシャ・ヴァルダナ　南インド進出の野望</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div>
	北インド一帯にその偉容を誇ったハルシャは、マウリヤ朝の<br />
	アショーカ王やグプタ朝のサムドラグプタの顰にならって<br />
	南インド進出を企て、数万にのぼる象軍を中心とする<br />
	巨大な軍隊を南進させた<br />
	当時の南インドでは、デカン高原のバーダーミに都する<br />
	チャールキヤ朝とタミル平原のカーンチープラムに本拠をおく<br />
	パッラヴァ朝が２大勢力で、前者の王プラケーシン２世が<br />
	ハルシャの郡を南北インドの境であったヴィンディヤ山脈の麓の<br />
	ナルマダー河畔に迎え撃った（634ごろ）<br />
	連戦連勝を誇ったさしもの軍隊も主力の象軍が壊滅的な打撃を蒙り<br />
	ついにここに一敗地にまみれることとなった<br />
	ハルシャの野望も打ち砕かれたのである<br />
	この出来事は、南インドの諸国が北インドの先進的な文化や<br />
	技術を吸収しながらもその一方的影響から脱して<br />
	ドラヴィダ文化独自の発展の道を歩み始めていたことを示している<br />
	北インド随一のハルシャの国家にも拮抗しうる力を<br />
	すでにそなえていたのである+</div>
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    <published>2011-12-12T18:35:18+09:00</published> 
    <updated>2011-12-12T18:35:18+09:00</updated> 
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    <title>ハルシャ・ヴァルダナ　学芸の奨励</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[ハルシャ自身はシヴァ神や太陽神をとくに崇拝した<br />
ヒンドゥー教徒であったとつたえられるが<br />
『大唐西域記』によれば年に１度諸国の僧を集めて広く議論を興し<br />
また５年に１度無遮大会とよばれる聖俗貴賤の別を問わない盛大な<br />
布施の行事を催すなど、仏教に対する帰依も深いものがあったと考えられる<br />
玄奘も仏僧３０００余人の前で自説を展開し、その論は大きな声で読み上げられた<br />
法会は１８日間におよんだが、誰ひとりとして玄奘の説を<br />
論破する者はあらわれなかった<br />
ハルシャは玄奘の高い学識を賞賛し、美しく装飾された象に乗せて<br />
町を巡回する栄を与えようとしたが、玄奘が固辞したため<br />
かわりにその袈裟を載せてパレードがなされたという<br />
玄奘の人となりとともに、文武両面にわたってクシャトリヤの理想を<br />
追求するハルシャの強い意志をそこにうかがうことができる<br />
無遮大会は、ガンガーとヤムナーの合流するヒンドゥー教の聖地<br />
アラーハーバードで開かれたが、玄奘来訪のこの時期ハルシャの主催になる<br />
６回目の大会が行われようとしていた<br />
施場は四方を竹で囲い、外には料理場、内部の茅葺きの堂の中には<br />
金銀、真珠、紅玻璃、大青珠などの多くの貴石が準備されていた<br />
それらはみな施しのためのものであり<br />
王自身の装身具や衣服さえ与えられたという<br />
大会が終わると空になった国庫をみかねて、従属する地方の支配者たちが<br />
王の装身具を買い戻して差し出したとつたえられる<br />
無遮大会の際の徹底した喜捨おあり方を示すエピソードであり<br />
王の威光にしたがった多くの地方支配者の存在を知ることができる<br />
<br />
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    <published>2011-12-08T19:12:41+09:00</published> 
    <updated>2011-12-08T19:12:41+09:00</updated> 
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    <title>ハルシャ・ヴァウダナ　首都カニヤークブジャの繁栄</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[ハルシャ即位当時の北インドはグプタ朝崩壊後の分裂時代で<br />
その様子は玄奘の『大唐西域記』に詳しい<br />
なかでもベルンガ地方のカルナスヴァルナは、ガンガー下流域の<br />
肥沃な平野を擁して強力な国家となっていた<br />
王位についてからのハルシャの一番の目的は<br />
このベンガルの雄を倒して兄王の無念を晴らすとともに<br />
生産力豊かな土地を領土に加えることにあった<br />
王は兵力の増強をはかって象軍５００、馬軍２万、歩兵５万の軍隊を組織し<br />
ベンガル地方を平定してその宿題を果たすと<br />
「象は鞍を解かず、人は甲を脱がず」と表現されるように<br />
休まず軍隊を東西に進め、わずか６年のあいだに北インド全域の支配を実現した<br />
その時点で象軍は６万、馬兵は１０万にも達していたという<br />
以降湯とのカニヤークブジャは北インドの政治の中心都市となり<br />
マガダ国の発展と共にグプタ朝にいたるまでの中枢の一を占めた<br />
パータリプトラにとって代わることとなった<br />
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    <published>2011-12-04T18:34:11+09:00</published> 
    <updated>2011-12-04T18:34:11+09:00</updated> 
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    <title>ハルシャ・ヴァルダナ（戒日王）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[590ごろ～647ごろ<br />
北インド変革期の覇王<br />
ヴァルダナ朝（606～647）の王<br />
シーラーディディ（戒日王）の称号をもつ<br />
デリーの北方、ガンガー（ガンジス川）・ヤムナー（ジュムナー川）<br />
上流域に位置するターネサルから勢力を伸長し<br />
北インドのほぼ全域を支配した<br />
兄王ラージャ・ヴァルダナがベンガル地方の支配者シャシャーンカの<br />
奸計により不慮の死をとげると、わずか１６歳で即位<br />
姻戚であったガンガー中流域一帯のマウカリ朝の領土を<br />
義弟王の死をきっかけとして併合し、その都で要請の地の<br />
カニャークブジャをみずからの首都と定めて<br />
北インド統一の足固めをした<br />
最後まで立ちはだかっていたのだ、仇敵のシャシャーカであり<br />
ハルシャはこれに対抗していたアッサム王バースカラヴァルマンと<br />
同盟してシャシャーンカを倒し、北インドのすえての支配者を<br />
服属させることに成功した<br />
ハルシャはさらにその野望を南インドに向け、<br />
６万の象軍を中心とした巨大な軍隊を南進させた<br />
しかし南北インドの坂井をなすヴィンディヤ山脈の麓の<br />
ナルマダー河畔で、デカン地方の覇者チャールキヤ朝の<br />
プレケーシン２世に敗れ、南インド進出は断念せざるを得なかった<br />
カニャークブジャの王の宮廷には多くの学者や芸術家などが集まったが<br />
そのなかには唐の太宗の使節王玄策や仏層の玄奘、王の一大記<br />
『ハルシャ・チャリタ』を華麗なサンスクリットであらわしたバーナなどがいた<br />
栄華を誇った王国もハルシャの死後は休息に瓦解した<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
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    <published>2011-12-01T19:33:44+09:00</published> 
    <updated>2011-12-01T19:33:44+09:00</updated> 
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    <title>カーリダーサ　ヨーロッパ文学への影響</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[代表作のひとつ『シャクンタラー』がカルカッタ滞在の<br />
裁判官ウィリアム・ジョーンズにより、１７８９年に英訳出版されるや<br />
その内容表現の豊かさはたちまち評判となり<br />
独訳、仏訳がつづけて出版された<br />
とりわけゲーテはその虜となり<br />
「年の初めの春の花、豊けき秋のその木の実。<br />
心すずろに喜ばすもの、満ち足らわして育むもの<br />
げに天も地も一言に、こめて尽くして言わまくば、<br />
われあ宣りなんなれが名を、ああサコンタラ、残るものなし」<br />
と最大級の賛辞を呈している<br />
また、自らの著作のヒントをカーリダーサの作品から得たとも<br />
つたえられている<br />
<br />
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    <published>2011-11-28T17:33:00+09:00</published> 
    <updated>2011-11-28T17:33:00+09:00</updated> 
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    <title>カーリダーサ　その思想</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<br id="NINJASELECTIONID" style="clear: both" />
サンスクリット文学は、カーヴィアといわれる独特の美文体で<br />
書かれることを一大特徴としている<br />
それを綴るためには、文法、修辞、韻律、詩論、演劇論といった<br />
文芸上の知識にとどまらず、神話、哲学、政治、法律からはては<br />
天文、地理、占ト、恋愛、処世術にまでわたる当時の社会生活全般への<br />
広範な知識が要請されるので、いきおいその作品世界は叙事詩<br />
抒情詩であれ戯曲であれ、人間社会の諸事百般から神々の活躍する<br />
天上界にいたるまでの総合性を帯びるのである<br />
前述のようにカーリダーサの名は（カーリー女神のしもべ）を意味し<br />
シヴァ神妃のカーリー女神の崇拝者、すなわちシヴァ神を最高神として<br />
奉じるヒンドゥー教の一派に属していたことを示唆する<br />
サンスクリット劇には冒頭に神を称えるナーンディー（祝福の詩節）がある<br />
しかし、その信仰はヒンドゥー教信仰一般の場合と同じく<br />
ヴィシュヌ神や女神などほかの神格への信仰に対して何ら排他的な<br />
性格のものでないことは、代表策の一つ『ラグ・ヴァンシャ』が<br />
大叙事詩『ラーマーヤマ』に題材を得た、ヴィシュヌ神の一化身としての<br />
ラーマ王子の系譜をたどったものであることがよく示している<br />
カーリダーサの作品世界からは、詩人が、業・輪廻思想を基盤とする<br />
ヒンドゥー社会のカースト制をうけいれ、人生の最大の目的を<br />
各自の生得の身分に応じての、ダルマ（法＝倫理）、アルタ（財）<br />
カーマ（愛）、モークシャ（解脱）の達成にありとする<br />
当時のきわめて正統かつ穏健なヒンドゥー思想の持ち主であったことが<br />
うかがわれるのである<br />
その理念の具体化した姿が、ときに理想的な君主として<br />
またときに世を絶する美女として巧みな比喩のもとに表現されるのである<br />
<br />
<br />
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    <published>2011-11-06T18:30:35+09:00</published> 
    <updated>2011-11-06T18:30:35+09:00</updated> 
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    <title>ナーガールジュナの思想</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[ナーガールジュナは、仏教思想史上は大乗仏教の理論的<br />
確立者として位置づけられている<br />
周知のように大乗仏教は菩薩信仰を中心にとらえた<br />
思想運動から発展したが、その伝播において、当時西北方から<br />
インドに来往した多くの異民族が果たした役割は小さくなかった<br />
前2世紀ごろに西北インドにバクトリア王国を樹立した<br />
ギリシア人とその後裔たち、また最盛期には中部インドから<br />
デカン高原地方西北部にまで支配を拡大したサカ（スキタイ）人<br />
パルティア人、さらにそのクライマックスとしての北インドのクシャーナ朝である<br />
ギリシア人の影響を通してのヘレニズム的哲学思考は<br />
亜大陸を舞台に仏教の教理問答『ミリンダ王の問』に結実し<br />
サカ、パルティアの仏教支援は、デカン先住のサータヴァーハナ朝の<br />
援助とあいまって、高原地帯にアジャンター、カールリーなどの<br />
華麗な窟院群を開鑿させ、クシャーナ朝下の積極的な造形活動は<br />
ガンダーラ美術として開花したのである<br />
これら一連の大きな動きは、仏教伝播にともなって<br />
各民族・各地域の個性が全体として仏教思想に反映した結果だといえる<br />
それらを肯定的にうけとめて思想の拡大をはかる大乗部系の人々が<br />
自己犠牲をもいとわない利他行を理想に掲げ<br />
ヨーガを基盤に据えた神秘主義的・形而学的思考をも進んで<br />
取り込んで生み出していったのが大乗の思想であった<br />
この思想運動は、仏塔信仰を実践していた多くの在俗信者らに支持されていた<br />
そのような思想状況から『般若経』や『法華経』などの大乗経典が編纂されたのであり<br />
この時期各地でさかんに政策された仏教や仏画は、大乗仏教のみに<br />
限られたものではないが、広く一般の信者に対し仏教の理想とする<br />
世界を視覚化してみせたものであったということができる<br />
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    <published>2011-10-30T17:54:04+09:00</published> 
    <updated>2011-10-30T17:54:04+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>ナーガールジュナ伝説</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[中国につたえられた『竜樹菩薩伝』のナーガールジュナの<br />
若き日の逸話につぎのようなものがある<br />
すでにあらゆる学問を身につけたナーガールジュナは<br />
隠身の術を使って3人の仲間と王の後宮に忍び入り<br />
快楽の限りを尽くした<br />
だがその所業はやがて王の知るところとなり<br />
友人3人は惨殺されたが、ひとりナーガールジュナのみは<br />
難をのがれ、「愛欲」の非なること、苦の元であることを<br />
深く悟って以降仏教に帰依することになった<br />
チベットの伝承ではこのエピソードは伝えられていないが<br />
ナーガールジュナは魔術を駆使する錬金術師でもあったという<br />
後代の玄奘の『大唐西域記』にも、おそらくは晩年の哲学者に<br />
関すると思われる伝承が記されている<br />
それによれば、ナーガールジュナは妙薬を服して生を養っていたために<br />
齢すでに数百歳であり、サータヴァーハナ王もその薬術の恩恵を蒙って<br />
同じく数百歳の長生を享受していたという<br />
もちろん年齢がそのまま事実とは考えられないが<br />
哲学者の没後およそ4世紀を経てその事跡が伝説化されていたこと<br />
また玄奘ほどの一大学識を有する高僧が<br />
ナーガールジュナのやくじゅつや、岩石を黄金にかえてしまうといった<br />
錬金術的奇蹟の伝承に対して、ほとんど何の疑義もさしはさまずに<br />
紹介していることなどが、逆に今日のわれわれには<br />
興味をそそるものがある<br />
おそらくナーガールジュナは、たんに仏教哲学上の大学者であるにとどまらず<br />
当時民間に広く知られていたいわゆる生活の智恵などとも通底する<br />
自然界、人間界全般にわたる処生や養生の知識と技術をも<br />
一心に体現したスケールの大きな人物であったと考えられる<br />
そのなかには出身地南インドに起源するものも<br />
当然含まれていたであろう<br />
北インドをも含めて各地を遍歴したとする伝承も確証はないが<br />
その文脈では興味を引くものがある<br />
<br />
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    <published>2011-10-27T18:02:14+09:00</published> 
    <updated>2011-10-27T18:02:14+09:00</updated> 
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    <title>カーリダーサ　グプタ朝時代の古典文化開花</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<br id="NINJASELECTIONID" style="clear: both" />
カーリダーサがその下で活躍したグプタ朝は<br />
チャンドラグプタ1世が、クシャーナ朝崩壊後分裂状態にあった<br />
北インドにしだいに勢力を拡大し、創始した王朝である<br />
2代王サムドラグプタは北インドの大部分を手中にし<br />
南インドのパッラヴァ朝の領域にまで進攻している<br />
つぎのチャンドラグプタ2世は西北インドを支配していたサカの勢力を破り<br />
交易で繁栄する西インドを版図に加えて王朝の最盛期を現出した<br />
この時代はサンスクリットを中心とした文芸の面にとどまらず<br />
絵画、彫刻、建築など諸方面で今日にまでのこる傑作が生まれた<br />
インド古典文化の黄金時代であった<br />
王室は学問や芸術を熱心に支援し、多くの俊秀が宮廷を主舞台として活躍した<br />
アジャンターの石窟僧院の壁面には、仏教的ならびに世俗的な<br />
さまざまなモチーフの美しい壁画が描かれ<br />
デーオガルやエーランではヒンドゥー教の最初期の逸品が造像され<br />
マトゥラー地方では均斉のとれた肉体表現を特徴とする仏像つくられていた<br />
当時の交易ルートの拠点に位置した諸都市はいずれも隠甄を極め<br />
なかでも首都パータリプトラや第2の都ウッジャイニーの都市文化の<br />
隆盛は名高かった<br />
中国の東晋の僧法顕パータリプトラでの盛大な仏教の祭礼について<br />
記述をのこしている<br />
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    <published>2011-10-23T19:11:35+09:00</published> 
    <updated>2011-10-23T19:11:35+09:00</updated> 
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    <title>ナーガールジュナの活躍した時代</title>
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      <![CDATA[ナーガールジュナが生きた２～３世紀は<br />
北インドにクシャーナ朝、南インドのデカン高原にサータヴァーハナ朝<br />
最南のタミル地方にはドラヴィダ人の諸国家が分立した時代である<br />
ヴェーダ文献では身分の低い「ダスユ」と記されており<br />
正統アーリヤの一員とは認められていない<br />
にもかかわらず、王朝の諸王はアシュヴァ・メーダをはじめとする<br />
ヴェーダの儀式を挙行し、アーリヤ文化、<br />
バラモン文化の体現者であることを誇示している<br />
その背景には北インドの先進文化や技術がしだいに<br />
南インドに波及する一方で、ドラヴィダ系であった<br />
可能性の高いデカン高原一帯の人々と北インドの人々との<br />
混血もかなり進んだことがあったと考えられる<br />
ナーガールジュナもそのような時代の空気を吸って<br />
人生を歩んだとみて間違いない<br />
それは北インドのアーリヤ人主導のサンスクリット文化が<br />
民族的にも多様な亜大陸各地の人々に受容され<br />
南インドではしだいにドラヴィダ系を中心とした<br />
先住民文化の要素が加わって変容をとけていく過程でもあった<br />
<br />
<br />
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