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- 2011.12.16 ハルシャ・ヴァルダナ 南インド進出の野望
- 2011.12.12 ハルシャ・ヴァルダナ 学芸の奨励
- 2011.12.08 ハルシャ・ヴァウダナ 首都カニヤークブジャの繁栄
- 2011.12.04 ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)
- 2011.12.01 カーリダーサ ヨーロッパ文学への影響
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北インド一帯にその偉容を誇ったハルシャは、マウリヤ朝の
アショーカ王やグプタ朝のサムドラグプタの顰にならって
南インド進出を企て、数万にのぼる象軍を中心とする
巨大な軍隊を南進させた
当時の南インドでは、デカン高原のバーダーミに都する
チャールキヤ朝とタミル平原のカーンチープラムに本拠をおく
パッラヴァ朝が2大勢力で、前者の王プラケーシン2世が
ハルシャの郡を南北インドの境であったヴィンディヤ山脈の麓の
ナルマダー河畔に迎え撃った(634ごろ)
連戦連勝を誇ったさしもの軍隊も主力の象軍が壊滅的な打撃を蒙り
ついにここに一敗地にまみれることとなった
ハルシャの野望も打ち砕かれたのである
この出来事は、南インドの諸国が北インドの先進的な文化や
技術を吸収しながらもその一方的影響から脱して
ドラヴィダ文化独自の発展の道を歩み始めていたことを示している
北インド随一のハルシャの国家にも拮抗しうる力を
すでにそなえていたのである+
アショーカ王やグプタ朝のサムドラグプタの顰にならって
南インド進出を企て、数万にのぼる象軍を中心とする
巨大な軍隊を南進させた
当時の南インドでは、デカン高原のバーダーミに都する
チャールキヤ朝とタミル平原のカーンチープラムに本拠をおく
パッラヴァ朝が2大勢力で、前者の王プラケーシン2世が
ハルシャの郡を南北インドの境であったヴィンディヤ山脈の麓の
ナルマダー河畔に迎え撃った(634ごろ)
連戦連勝を誇ったさしもの軍隊も主力の象軍が壊滅的な打撃を蒙り
ついにここに一敗地にまみれることとなった
ハルシャの野望も打ち砕かれたのである
この出来事は、南インドの諸国が北インドの先進的な文化や
技術を吸収しながらもその一方的影響から脱して
ドラヴィダ文化独自の発展の道を歩み始めていたことを示している
北インド随一のハルシャの国家にも拮抗しうる力を
すでにそなえていたのである+
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ハルシャ自身はシヴァ神や太陽神をとくに崇拝した
ヒンドゥー教徒であったとつたえられるが
『大唐西域記』によれば年に1度諸国の僧を集めて広く議論を興し
また5年に1度無遮大会とよばれる聖俗貴賤の別を問わない盛大な
布施の行事を催すなど、仏教に対する帰依も深いものがあったと考えられる
玄奘も仏僧3000余人の前で自説を展開し、その論は大きな声で読み上げられた
法会は18日間におよんだが、誰ひとりとして玄奘の説を
論破する者はあらわれなかった
ハルシャは玄奘の高い学識を賞賛し、美しく装飾された象に乗せて
町を巡回する栄を与えようとしたが、玄奘が固辞したため
かわりにその袈裟を載せてパレードがなされたという
玄奘の人となりとともに、文武両面にわたってクシャトリヤの理想を
追求するハルシャの強い意志をそこにうかがうことができる
無遮大会は、ガンガーとヤムナーの合流するヒンドゥー教の聖地
アラーハーバードで開かれたが、玄奘来訪のこの時期ハルシャの主催になる
6回目の大会が行われようとしていた
施場は四方を竹で囲い、外には料理場、内部の茅葺きの堂の中には
金銀、真珠、紅玻璃、大青珠などの多くの貴石が準備されていた
それらはみな施しのためのものであり
王自身の装身具や衣服さえ与えられたという
大会が終わると空になった国庫をみかねて、従属する地方の支配者たちが
王の装身具を買い戻して差し出したとつたえられる
無遮大会の際の徹底した喜捨おあり方を示すエピソードであり
王の威光にしたがった多くの地方支配者の存在を知ることができる
ヒンドゥー教徒であったとつたえられるが
『大唐西域記』によれば年に1度諸国の僧を集めて広く議論を興し
また5年に1度無遮大会とよばれる聖俗貴賤の別を問わない盛大な
布施の行事を催すなど、仏教に対する帰依も深いものがあったと考えられる
玄奘も仏僧3000余人の前で自説を展開し、その論は大きな声で読み上げられた
法会は18日間におよんだが、誰ひとりとして玄奘の説を
論破する者はあらわれなかった
ハルシャは玄奘の高い学識を賞賛し、美しく装飾された象に乗せて
町を巡回する栄を与えようとしたが、玄奘が固辞したため
かわりにその袈裟を載せてパレードがなされたという
玄奘の人となりとともに、文武両面にわたってクシャトリヤの理想を
追求するハルシャの強い意志をそこにうかがうことができる
無遮大会は、ガンガーとヤムナーの合流するヒンドゥー教の聖地
アラーハーバードで開かれたが、玄奘来訪のこの時期ハルシャの主催になる
6回目の大会が行われようとしていた
施場は四方を竹で囲い、外には料理場、内部の茅葺きの堂の中には
金銀、真珠、紅玻璃、大青珠などの多くの貴石が準備されていた
それらはみな施しのためのものであり
王自身の装身具や衣服さえ与えられたという
大会が終わると空になった国庫をみかねて、従属する地方の支配者たちが
王の装身具を買い戻して差し出したとつたえられる
無遮大会の際の徹底した喜捨おあり方を示すエピソードであり
王の威光にしたがった多くの地方支配者の存在を知ることができる
ハルシャ即位当時の北インドはグプタ朝崩壊後の分裂時代で
その様子は玄奘の『大唐西域記』に詳しい
なかでもベルンガ地方のカルナスヴァルナは、ガンガー下流域の
肥沃な平野を擁して強力な国家となっていた
王位についてからのハルシャの一番の目的は
このベンガルの雄を倒して兄王の無念を晴らすとともに
生産力豊かな土地を領土に加えることにあった
王は兵力の増強をはかって象軍500、馬軍2万、歩兵5万の軍隊を組織し
ベンガル地方を平定してその宿題を果たすと
「象は鞍を解かず、人は甲を脱がず」と表現されるように
休まず軍隊を東西に進め、わずか6年のあいだに北インド全域の支配を実現した
その時点で象軍は6万、馬兵は10万にも達していたという
以降湯とのカニヤークブジャは北インドの政治の中心都市となり
マガダ国の発展と共にグプタ朝にいたるまでの中枢の一を占めた
パータリプトラにとって代わることとなった
その様子は玄奘の『大唐西域記』に詳しい
なかでもベルンガ地方のカルナスヴァルナは、ガンガー下流域の
肥沃な平野を擁して強力な国家となっていた
王位についてからのハルシャの一番の目的は
このベンガルの雄を倒して兄王の無念を晴らすとともに
生産力豊かな土地を領土に加えることにあった
王は兵力の増強をはかって象軍500、馬軍2万、歩兵5万の軍隊を組織し
ベンガル地方を平定してその宿題を果たすと
「象は鞍を解かず、人は甲を脱がず」と表現されるように
休まず軍隊を東西に進め、わずか6年のあいだに北インド全域の支配を実現した
その時点で象軍は6万、馬兵は10万にも達していたという
以降湯とのカニヤークブジャは北インドの政治の中心都市となり
マガダ国の発展と共にグプタ朝にいたるまでの中枢の一を占めた
パータリプトラにとって代わることとなった
590ごろ~647ごろ
北インド変革期の覇王
ヴァルダナ朝(606~647)の王
シーラーディディ(戒日王)の称号をもつ
デリーの北方、ガンガー(ガンジス川)・ヤムナー(ジュムナー川)
上流域に位置するターネサルから勢力を伸長し
北インドのほぼ全域を支配した
兄王ラージャ・ヴァルダナがベンガル地方の支配者シャシャーンカの
奸計により不慮の死をとげると、わずか16歳で即位
姻戚であったガンガー中流域一帯のマウカリ朝の領土を
義弟王の死をきっかけとして併合し、その都で要請の地の
カニャークブジャをみずからの首都と定めて
北インド統一の足固めをした
最後まで立ちはだかっていたのだ、仇敵のシャシャーカであり
ハルシャはこれに対抗していたアッサム王バースカラヴァルマンと
同盟してシャシャーンカを倒し、北インドのすえての支配者を
服属させることに成功した
ハルシャはさらにその野望を南インドに向け、
6万の象軍を中心とした巨大な軍隊を南進させた
しかし南北インドの坂井をなすヴィンディヤ山脈の麓の
ナルマダー河畔で、デカン地方の覇者チャールキヤ朝の
プレケーシン2世に敗れ、南インド進出は断念せざるを得なかった
カニャークブジャの王の宮廷には多くの学者や芸術家などが集まったが
そのなかには唐の太宗の使節王玄策や仏層の玄奘、王の一大記
『ハルシャ・チャリタ』を華麗なサンスクリットであらわしたバーナなどがいた
栄華を誇った王国もハルシャの死後は休息に瓦解した
北インド変革期の覇王
ヴァルダナ朝(606~647)の王
シーラーディディ(戒日王)の称号をもつ
デリーの北方、ガンガー(ガンジス川)・ヤムナー(ジュムナー川)
上流域に位置するターネサルから勢力を伸長し
北インドのほぼ全域を支配した
兄王ラージャ・ヴァルダナがベンガル地方の支配者シャシャーンカの
奸計により不慮の死をとげると、わずか16歳で即位
姻戚であったガンガー中流域一帯のマウカリ朝の領土を
義弟王の死をきっかけとして併合し、その都で要請の地の
カニャークブジャをみずからの首都と定めて
北インド統一の足固めをした
最後まで立ちはだかっていたのだ、仇敵のシャシャーカであり
ハルシャはこれに対抗していたアッサム王バースカラヴァルマンと
同盟してシャシャーンカを倒し、北インドのすえての支配者を
服属させることに成功した
ハルシャはさらにその野望を南インドに向け、
6万の象軍を中心とした巨大な軍隊を南進させた
しかし南北インドの坂井をなすヴィンディヤ山脈の麓の
ナルマダー河畔で、デカン地方の覇者チャールキヤ朝の
プレケーシン2世に敗れ、南インド進出は断念せざるを得なかった
カニャークブジャの王の宮廷には多くの学者や芸術家などが集まったが
そのなかには唐の太宗の使節王玄策や仏層の玄奘、王の一大記
『ハルシャ・チャリタ』を華麗なサンスクリットであらわしたバーナなどがいた
栄華を誇った王国もハルシャの死後は休息に瓦解した
代表作のひとつ『シャクンタラー』がカルカッタ滞在の
裁判官ウィリアム・ジョーンズにより、1789年に英訳出版されるや
その内容表現の豊かさはたちまち評判となり
独訳、仏訳がつづけて出版された
とりわけゲーテはその虜となり
「年の初めの春の花、豊けき秋のその木の実。
心すずろに喜ばすもの、満ち足らわして育むもの
げに天も地も一言に、こめて尽くして言わまくば、
われあ宣りなんなれが名を、ああサコンタラ、残るものなし」
と最大級の賛辞を呈している
また、自らの著作のヒントをカーリダーサの作品から得たとも
つたえられている
裁判官ウィリアム・ジョーンズにより、1789年に英訳出版されるや
その内容表現の豊かさはたちまち評判となり
独訳、仏訳がつづけて出版された
とりわけゲーテはその虜となり
「年の初めの春の花、豊けき秋のその木の実。
心すずろに喜ばすもの、満ち足らわして育むもの
げに天も地も一言に、こめて尽くして言わまくば、
われあ宣りなんなれが名を、ああサコンタラ、残るものなし」
と最大級の賛辞を呈している
また、自らの著作のヒントをカーリダーサの作品から得たとも
つたえられている
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