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- 2011.11.28 カーリダーサ その思想
- 2011.11.06 ナーガールジュナの思想
- 2011.10.30 ナーガールジュナ伝説
- 2011.10.27 カーリダーサ グプタ朝時代の古典文化開花
- 2011.10.23 ナーガールジュナの活躍した時代
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サンスクリット文学は、カーヴィアといわれる独特の美文体で
書かれることを一大特徴としている
それを綴るためには、文法、修辞、韻律、詩論、演劇論といった
文芸上の知識にとどまらず、神話、哲学、政治、法律からはては
天文、地理、占ト、恋愛、処世術にまでわたる当時の社会生活全般への
広範な知識が要請されるので、いきおいその作品世界は叙事詩
抒情詩であれ戯曲であれ、人間社会の諸事百般から神々の活躍する
天上界にいたるまでの総合性を帯びるのである
前述のようにカーリダーサの名は(カーリー女神のしもべ)を意味し
シヴァ神妃のカーリー女神の崇拝者、すなわちシヴァ神を最高神として
奉じるヒンドゥー教の一派に属していたことを示唆する
サンスクリット劇には冒頭に神を称えるナーンディー(祝福の詩節)がある
しかし、その信仰はヒンドゥー教信仰一般の場合と同じく
ヴィシュヌ神や女神などほかの神格への信仰に対して何ら排他的な
性格のものでないことは、代表策の一つ『ラグ・ヴァンシャ』が
大叙事詩『ラーマーヤマ』に題材を得た、ヴィシュヌ神の一化身としての
ラーマ王子の系譜をたどったものであることがよく示している
カーリダーサの作品世界からは、詩人が、業・輪廻思想を基盤とする
ヒンドゥー社会のカースト制をうけいれ、人生の最大の目的を
各自の生得の身分に応じての、ダルマ(法=倫理)、アルタ(財)
カーマ(愛)、モークシャ(解脱)の達成にありとする
当時のきわめて正統かつ穏健なヒンドゥー思想の持ち主であったことが
うかがわれるのである
その理念の具体化した姿が、ときに理想的な君主として
またときに世を絶する美女として巧みな比喩のもとに表現されるのである
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ナーガールジュナは、仏教思想史上は大乗仏教の理論的
確立者として位置づけられている
周知のように大乗仏教は菩薩信仰を中心にとらえた
思想運動から発展したが、その伝播において、当時西北方から
インドに来往した多くの異民族が果たした役割は小さくなかった
前2世紀ごろに西北インドにバクトリア王国を樹立した
ギリシア人とその後裔たち、また最盛期には中部インドから
デカン高原地方西北部にまで支配を拡大したサカ(スキタイ)人
パルティア人、さらにそのクライマックスとしての北インドのクシャーナ朝である
ギリシア人の影響を通してのヘレニズム的哲学思考は
亜大陸を舞台に仏教の教理問答『ミリンダ王の問』に結実し
サカ、パルティアの仏教支援は、デカン先住のサータヴァーハナ朝の
援助とあいまって、高原地帯にアジャンター、カールリーなどの
華麗な窟院群を開鑿させ、クシャーナ朝下の積極的な造形活動は
ガンダーラ美術として開花したのである
これら一連の大きな動きは、仏教伝播にともなって
各民族・各地域の個性が全体として仏教思想に反映した結果だといえる
それらを肯定的にうけとめて思想の拡大をはかる大乗部系の人々が
自己犠牲をもいとわない利他行を理想に掲げ
ヨーガを基盤に据えた神秘主義的・形而学的思考をも進んで
取り込んで生み出していったのが大乗の思想であった
この思想運動は、仏塔信仰を実践していた多くの在俗信者らに支持されていた
そのような思想状況から『般若経』や『法華経』などの大乗経典が編纂されたのであり
この時期各地でさかんに政策された仏教や仏画は、大乗仏教のみに
限られたものではないが、広く一般の信者に対し仏教の理想とする
世界を視覚化してみせたものであったということができる
確立者として位置づけられている
周知のように大乗仏教は菩薩信仰を中心にとらえた
思想運動から発展したが、その伝播において、当時西北方から
インドに来往した多くの異民族が果たした役割は小さくなかった
前2世紀ごろに西北インドにバクトリア王国を樹立した
ギリシア人とその後裔たち、また最盛期には中部インドから
デカン高原地方西北部にまで支配を拡大したサカ(スキタイ)人
パルティア人、さらにそのクライマックスとしての北インドのクシャーナ朝である
ギリシア人の影響を通してのヘレニズム的哲学思考は
亜大陸を舞台に仏教の教理問答『ミリンダ王の問』に結実し
サカ、パルティアの仏教支援は、デカン先住のサータヴァーハナ朝の
援助とあいまって、高原地帯にアジャンター、カールリーなどの
華麗な窟院群を開鑿させ、クシャーナ朝下の積極的な造形活動は
ガンダーラ美術として開花したのである
これら一連の大きな動きは、仏教伝播にともなって
各民族・各地域の個性が全体として仏教思想に反映した結果だといえる
それらを肯定的にうけとめて思想の拡大をはかる大乗部系の人々が
自己犠牲をもいとわない利他行を理想に掲げ
ヨーガを基盤に据えた神秘主義的・形而学的思考をも進んで
取り込んで生み出していったのが大乗の思想であった
この思想運動は、仏塔信仰を実践していた多くの在俗信者らに支持されていた
そのような思想状況から『般若経』や『法華経』などの大乗経典が編纂されたのであり
この時期各地でさかんに政策された仏教や仏画は、大乗仏教のみに
限られたものではないが、広く一般の信者に対し仏教の理想とする
世界を視覚化してみせたものであったということができる
中国につたえられた『竜樹菩薩伝』のナーガールジュナの
若き日の逸話につぎのようなものがある
すでにあらゆる学問を身につけたナーガールジュナは
隠身の術を使って3人の仲間と王の後宮に忍び入り
快楽の限りを尽くした
だがその所業はやがて王の知るところとなり
友人3人は惨殺されたが、ひとりナーガールジュナのみは
難をのがれ、「愛欲」の非なること、苦の元であることを
深く悟って以降仏教に帰依することになった
チベットの伝承ではこのエピソードは伝えられていないが
ナーガールジュナは魔術を駆使する錬金術師でもあったという
後代の玄奘の『大唐西域記』にも、おそらくは晩年の哲学者に
関すると思われる伝承が記されている
それによれば、ナーガールジュナは妙薬を服して生を養っていたために
齢すでに数百歳であり、サータヴァーハナ王もその薬術の恩恵を蒙って
同じく数百歳の長生を享受していたという
もちろん年齢がそのまま事実とは考えられないが
哲学者の没後およそ4世紀を経てその事跡が伝説化されていたこと
また玄奘ほどの一大学識を有する高僧が
ナーガールジュナのやくじゅつや、岩石を黄金にかえてしまうといった
錬金術的奇蹟の伝承に対して、ほとんど何の疑義もさしはさまずに
紹介していることなどが、逆に今日のわれわれには
興味をそそるものがある
おそらくナーガールジュナは、たんに仏教哲学上の大学者であるにとどまらず
当時民間に広く知られていたいわゆる生活の智恵などとも通底する
自然界、人間界全般にわたる処生や養生の知識と技術をも
一心に体現したスケールの大きな人物であったと考えられる
そのなかには出身地南インドに起源するものも
当然含まれていたであろう
北インドをも含めて各地を遍歴したとする伝承も確証はないが
その文脈では興味を引くものがある
若き日の逸話につぎのようなものがある
すでにあらゆる学問を身につけたナーガールジュナは
隠身の術を使って3人の仲間と王の後宮に忍び入り
快楽の限りを尽くした
だがその所業はやがて王の知るところとなり
友人3人は惨殺されたが、ひとりナーガールジュナのみは
難をのがれ、「愛欲」の非なること、苦の元であることを
深く悟って以降仏教に帰依することになった
チベットの伝承ではこのエピソードは伝えられていないが
ナーガールジュナは魔術を駆使する錬金術師でもあったという
後代の玄奘の『大唐西域記』にも、おそらくは晩年の哲学者に
関すると思われる伝承が記されている
それによれば、ナーガールジュナは妙薬を服して生を養っていたために
齢すでに数百歳であり、サータヴァーハナ王もその薬術の恩恵を蒙って
同じく数百歳の長生を享受していたという
もちろん年齢がそのまま事実とは考えられないが
哲学者の没後およそ4世紀を経てその事跡が伝説化されていたこと
また玄奘ほどの一大学識を有する高僧が
ナーガールジュナのやくじゅつや、岩石を黄金にかえてしまうといった
錬金術的奇蹟の伝承に対して、ほとんど何の疑義もさしはさまずに
紹介していることなどが、逆に今日のわれわれには
興味をそそるものがある
おそらくナーガールジュナは、たんに仏教哲学上の大学者であるにとどまらず
当時民間に広く知られていたいわゆる生活の智恵などとも通底する
自然界、人間界全般にわたる処生や養生の知識と技術をも
一心に体現したスケールの大きな人物であったと考えられる
そのなかには出身地南インドに起源するものも
当然含まれていたであろう
北インドをも含めて各地を遍歴したとする伝承も確証はないが
その文脈では興味を引くものがある
カーリダーサがその下で活躍したグプタ朝は
チャンドラグプタ1世が、クシャーナ朝崩壊後分裂状態にあった
北インドにしだいに勢力を拡大し、創始した王朝である
2代王サムドラグプタは北インドの大部分を手中にし
南インドのパッラヴァ朝の領域にまで進攻している
つぎのチャンドラグプタ2世は西北インドを支配していたサカの勢力を破り
交易で繁栄する西インドを版図に加えて王朝の最盛期を現出した
この時代はサンスクリットを中心とした文芸の面にとどまらず
絵画、彫刻、建築など諸方面で今日にまでのこる傑作が生まれた
インド古典文化の黄金時代であった
王室は学問や芸術を熱心に支援し、多くの俊秀が宮廷を主舞台として活躍した
アジャンターの石窟僧院の壁面には、仏教的ならびに世俗的な
さまざまなモチーフの美しい壁画が描かれ
デーオガルやエーランではヒンドゥー教の最初期の逸品が造像され
マトゥラー地方では均斉のとれた肉体表現を特徴とする仏像つくられていた
当時の交易ルートの拠点に位置した諸都市はいずれも隠甄を極め
なかでも首都パータリプトラや第2の都ウッジャイニーの都市文化の
隆盛は名高かった
中国の東晋の僧法顕パータリプトラでの盛大な仏教の祭礼について
記述をのこしている
ナーガールジュナが生きた2~3世紀は
北インドにクシャーナ朝、南インドのデカン高原にサータヴァーハナ朝
最南のタミル地方にはドラヴィダ人の諸国家が分立した時代である
ヴェーダ文献では身分の低い「ダスユ」と記されており
正統アーリヤの一員とは認められていない
にもかかわらず、王朝の諸王はアシュヴァ・メーダをはじめとする
ヴェーダの儀式を挙行し、アーリヤ文化、
バラモン文化の体現者であることを誇示している
その背景には北インドの先進文化や技術がしだいに
南インドに波及する一方で、ドラヴィダ系であった
可能性の高いデカン高原一帯の人々と北インドの人々との
混血もかなり進んだことがあったと考えられる
ナーガールジュナもそのような時代の空気を吸って
人生を歩んだとみて間違いない
それは北インドのアーリヤ人主導のサンスクリット文化が
民族的にも多様な亜大陸各地の人々に受容され
南インドではしだいにドラヴィダ系を中心とした
先住民文化の要素が加わって変容をとけていく過程でもあった
北インドにクシャーナ朝、南インドのデカン高原にサータヴァーハナ朝
最南のタミル地方にはドラヴィダ人の諸国家が分立した時代である
ヴェーダ文献では身分の低い「ダスユ」と記されており
正統アーリヤの一員とは認められていない
にもかかわらず、王朝の諸王はアシュヴァ・メーダをはじめとする
ヴェーダの儀式を挙行し、アーリヤ文化、
バラモン文化の体現者であることを誇示している
その背景には北インドの先進文化や技術がしだいに
南インドに波及する一方で、ドラヴィダ系であった
可能性の高いデカン高原一帯の人々と北インドの人々との
混血もかなり進んだことがあったと考えられる
ナーガールジュナもそのような時代の空気を吸って
人生を歩んだとみて間違いない
それは北インドのアーリヤ人主導のサンスクリット文化が
民族的にも多様な亜大陸各地の人々に受容され
南インドではしだいにドラヴィダ系を中心とした
先住民文化の要素が加わって変容をとけていく過程でもあった
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