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暴悪阿育から法阿育へ-仏教の伝説
アショーカ(阿育)王の生涯については南北の仏教徒が伝えている
このうち南方伝承はスリランカの上座部につたわるものである
北方伝承は、はじめサンスクリット語で書かれ
後に中国につたわり漢訳されたものである
南北両伝承のあいだには異なる部分も多いが
ここで細部にこだわらず仏典にみられる王の生涯を紹介したい
アショーカはビンドゥサーラ王の多数の王子のひとりとして生まれた
しかし長子ではなくまた正妃の子でもなかったようである
父王は長子スシーマを可愛がり、アショーカを冷遇した
青年に達したアショーカは、父から西北インドの反乱鎮圧という
難事を命じられたが、天の加護によって目的を果たし
無事都に帰還した
その後アショーカは、西インドの太守に任ぜられ、ふたたび都を離れた
彼はこの地で、大商人の娘との間に男児と女児をもうけるが
マヒンダと名付けられた男児はのちにスリランカの仏教の祖となった
派遣先の地で父王重病の知らせをうけたアショーカは
ただちに都に戻り、王の死後に長兄をはじめとする
異母兄弟を殺して王位に登った
南方伝承によれば、このとき同母弟1人を除く99人の兄弟を殺したという
この数は誇張であるが、北方伝承も長兄殺害の話をつたえているのであるから
王位継承の争いがあった可能性は大きい
即位後のアショーカは暴虐のかぎりをつくしたため、
人々からチャンダ・アショーカ(暴悪阿育)とよばれ恐れられた
華麗な門をもった「地獄」をつくり
そこにはいる者をことごとく殺させたともつたえられている
仏教徒の伝説作者は、仏教改修以前のアショーカを凶悪に描くことによって
仏教への改宗を印象的なモノにしようとしているのである
やがてアショーカは、ひとりの仏僧に導かれて悪の道を離れ
仏教の熱心な信者になる
人々は仏教を保護し、慈悲深い政治につとめる王をみて
ダルマ・アショーカ(法阿育)とよぶようになったという
アショーカは碑文のなかで、はじめ仏教に無関心であったが
その後しだいに熱心な信者になったとみずから語っている
改宗伝説は、こうした史実を誇張してつたえたものである

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B.C.3C
在位268ごろ~232B.Cごろ
インダス川、ガンジス川という両大河にまたがる
インド最初の統一帝国をうちたてたのは
チャンドラグプタ(在位前317ごろ~前293ごろ)である
アショーカはここに誕生したマウリヤ帝国(前317~前180)の
第3代の帝王として即位した
彼は当初、、祖父以来の領土拡張政策を推し進め
即位後8年にデカン東北にあった強国カリンガを征服した
しかしカリンガ征服は、兵士ばかりでなく住民にも
多大な犠牲者をもたらすものであった
アショーカはこれを反省して政策を大転換させ
非暴力主義にたつ「ダルマ」の政治の実施に踏み切った
そしてその政治の理想を全住民に知らしめるため
詔勅を発布してそれを領内各地の岩石(磨崖)や石柱に刻ませた
また、使節を派遣して、その理想をシリア・エジプトなどの
ギリシア人諸王や、半島南部のドラヴィダ人諸王、スリランカ王に伝えた
一方、アショーカは、カリンガ制服の前後から仏教に信者になり
それ以後熱心な仏教徒として仏塔建立や聖地巡拝を行っている
また仏典の編集を援助したという
しかし宗教政策は寛容で、仏教以外の諸宗教をも同時に保護している
アショーカ王は36差年の在位の後没したが
その死後ほどなく大国は分裂を初め、50年後に滅亡した

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