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4C後半~5C前半
サンスクリット文学の最高峰
グプタ朝時代(320~550ごろ)に活躍したインド文学史上最高の詩人・劇作家
その生涯は数多の伝承に彩られ確かなところはわからないが
第3代チャンドラグプタ2世の治世を中心に、インド中部のアヴァンティ地方
ウッジャイニーでその文芸活動を展開したと考えられる
ウッジャイニーは、当時盛んであった西方世界とインドとの交易において
インド西海岸の港町と北インド諸都市とを結ぶ一大中継地として
繁栄をきわめ、チャンドラグプタ2世のときには
王朝第2の都として宮廷文化の華が咲き誇っていた
ある伝承によれば、カーリダーサは当時の「九宝」と並び称された
詩人のひとりであった
また多くの伝承が、ヴィクラマーディティヤとカーリダーサとの深い関係を
物語っており、詩人が王の庇護をうけその宮廷で活躍したことは
ほぼ確実と考えられる
代表作として、恋愛を主題とする戯曲『シャクンタラー』や『ヴィクラマ・ウルヴァシーヤ』、
シヴァ神の結婚を扱った叙事詩『クマーラ・サンババ』
遠く幽囚の憂き目に遭った半身のヤクシャが故郷の妻を慕う『メーガ・ドゥータ』
などがある
サンスクリット文学の最高峰
グプタ朝時代(320~550ごろ)に活躍したインド文学史上最高の詩人・劇作家
その生涯は数多の伝承に彩られ確かなところはわからないが
第3代チャンドラグプタ2世の治世を中心に、インド中部のアヴァンティ地方
ウッジャイニーでその文芸活動を展開したと考えられる
ウッジャイニーは、当時盛んであった西方世界とインドとの交易において
インド西海岸の港町と北インド諸都市とを結ぶ一大中継地として
繁栄をきわめ、チャンドラグプタ2世のときには
王朝第2の都として宮廷文化の華が咲き誇っていた
ある伝承によれば、カーリダーサは当時の「九宝」と並び称された
詩人のひとりであった
また多くの伝承が、ヴィクラマーディティヤとカーリダーサとの深い関係を
物語っており、詩人が王の庇護をうけその宮廷で活躍したことは
ほぼ確実と考えられる
代表作として、恋愛を主題とする戯曲『シャクンタラー』や『ヴィクラマ・ウルヴァシーヤ』、
シヴァ神の結婚を扱った叙事詩『クマーラ・サンババ』
遠く幽囚の憂き目に遭った半身のヤクシャが故郷の妻を慕う『メーガ・ドゥータ』
などがある
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150ごろ~250ごろ
大乗仏教理論の確立者
南インド・デカン高原北部のヴィダルバ地方で生まれたと
考えられるバラモン階層出身の仏教哲学者
漢名を竜樹という
最初期の大乗仏典である『般若経』の「空」の思考をけいしょうして
これを哲学的に論理化し、後に大きく展開した中観派哲学の祖となった
紀元前後には説一切有部などを中心とする部派(上座部、小乗)仏教が説く
あらゆる存在の実在性に立脚しての実在論が一般的であった
ナーガールジュナはこれに対して、いっさいのものはそれ自体としては存在せず
ただ他に依存しての「縁起」によってのみ成り立つもので
本来的には「有」でも「無」でもなく、その対立をこえた「空」なるものである
とする思想を発展させた
当時デカン高原北部はサータヴァーハナ朝(アーランド王国)の支配下にあり
ナーガールジュナも王家と深くかかわったとつたえられる
後半生の活躍の舞台であったと考えられるクリシュナ―川流域には
つづくイクシュヴァーク朝時代に仏教文化が栄え
哲学者の名に由来するナーガールジュナコンダをはじめとする諸都市には
多くの仏教僧院やストゥーパが建立された
ただし、イクシュヴァーク朝と哲学者を直接に結びつける確証はない
代表的な著作として『中論』『空七十論』などがあり、漢訳のみつたわる
『大智度論』『十二門論』なども広く知られている
その思想はチベット、中国から日本にまで伝わり
三論宗や法相宗など「八宋の祖」として長く仰がれる存在となった
大乗仏教理論の確立者
南インド・デカン高原北部のヴィダルバ地方で生まれたと
考えられるバラモン階層出身の仏教哲学者
漢名を竜樹という
最初期の大乗仏典である『般若経』の「空」の思考をけいしょうして
これを哲学的に論理化し、後に大きく展開した中観派哲学の祖となった
紀元前後には説一切有部などを中心とする部派(上座部、小乗)仏教が説く
あらゆる存在の実在性に立脚しての実在論が一般的であった
ナーガールジュナはこれに対して、いっさいのものはそれ自体としては存在せず
ただ他に依存しての「縁起」によってのみ成り立つもので
本来的には「有」でも「無」でもなく、その対立をこえた「空」なるものである
とする思想を発展させた
当時デカン高原北部はサータヴァーハナ朝(アーランド王国)の支配下にあり
ナーガールジュナも王家と深くかかわったとつたえられる
後半生の活躍の舞台であったと考えられるクリシュナ―川流域には
つづくイクシュヴァーク朝時代に仏教文化が栄え
哲学者の名に由来するナーガールジュナコンダをはじめとする諸都市には
多くの仏教僧院やストゥーパが建立された
ただし、イクシュヴァーク朝と哲学者を直接に結びつける確証はない
代表的な著作として『中論』『空七十論』などがあり、漢訳のみつたわる
『大智度論』『十二門論』なども広く知られている
その思想はチベット、中国から日本にまで伝わり
三論宗や法相宗など「八宋の祖」として長く仰がれる存在となった
ナーガールジュナは、それらの初期大乗経典の思想を継承し
さらnその哲学を「空」の思想の理論化として徹底させたのであった
それはこの世のあらゆるものが相互依存的にあるにしかすぎないもの
すなわち「空性」においてしか表現され得ないものであることを示し
この「空性」こそが、「有」でも「無」でもなく
その両者への執着、その両者の対立をこえた中道のあり方に
ほかならないとする立場であった
ブッダ以来の中道の理想が、大乗の思想的文脈において
ここに理論家されたのである
「色即是空・空即是色」「煩悩即菩提」として理解される世界の
根本理論がそこに開示定立されたということができる
さらnその哲学を「空」の思想の理論化として徹底させたのであった
それはこの世のあらゆるものが相互依存的にあるにしかすぎないもの
すなわち「空性」においてしか表現され得ないものであることを示し
この「空性」こそが、「有」でも「無」でもなく
その両者への執着、その両者の対立をこえた中道のあり方に
ほかならないとする立場であった
ブッダ以来の中道の理想が、大乗の思想的文脈において
ここに理論家されたのである
「色即是空・空即是色」「煩悩即菩提」として理解される世界の
根本理論がそこに開示定立されたということができる
ダルマの政治
ここでアショーカ王詔勅の語るダルマの政治について記しておきたい
アショーカは万人の守るべき普遍的道徳を「だるま(法)」とよんだ
それは具体的には、生き物を殺したり傷つけたりしないこと
父母に従順であること、親族や友人に礼儀正しく接すること
出家者やバラモンや年長者を尊ぶこと
貧者や奴隷をいたわること、他人の立場を尊重すること
などを意味する
アショーカは、こうしたダルマを全人民が実践するならば
国内は平和になり、個々の人民も現世・来世の安楽が得られると考えた
王の説くダルマは仏教の影響を強くうけた統治の理念である
もちろん王自身もダルマの実践につとめている
たとえば、多数の人命を奪う戦争を放棄しただけでなく
生類の殺生をともなう行為を禁じ、また人間と動物のための
病院を各地に建て、薬草や果樹をサ倍させ
路傍に井戸を掘り、樹木を植え、休息所を設けるなどの
社会事業を進めた
またみずから各地を巡ってダルマの宣伝につとめ
さらにダルマの普及にもっぱらあたる高官を新たに任命している
アショーカはこのように、だるまを手段として広大な帝国の統一を
維持しようとしたのである
しかし現実は、高い理想の存続を許さなかった
多くの歴史家は、ダルマの政治が軍事力を弱体化させたため
後継の王たちに帝国の維持を不可能とさせ
内部崩壊と西北辺境からの異民族の侵入を招いたとみている
ここでアショーカ王詔勅の語るダルマの政治について記しておきたい
アショーカは万人の守るべき普遍的道徳を「だるま(法)」とよんだ
それは具体的には、生き物を殺したり傷つけたりしないこと
父母に従順であること、親族や友人に礼儀正しく接すること
出家者やバラモンや年長者を尊ぶこと
貧者や奴隷をいたわること、他人の立場を尊重すること
などを意味する
アショーカは、こうしたダルマを全人民が実践するならば
国内は平和になり、個々の人民も現世・来世の安楽が得られると考えた
王の説くダルマは仏教の影響を強くうけた統治の理念である
もちろん王自身もダルマの実践につとめている
たとえば、多数の人命を奪う戦争を放棄しただけでなく
生類の殺生をともなう行為を禁じ、また人間と動物のための
病院を各地に建て、薬草や果樹をサ倍させ
路傍に井戸を掘り、樹木を植え、休息所を設けるなどの
社会事業を進めた
またみずから各地を巡ってダルマの宣伝につとめ
さらにダルマの普及にもっぱらあたる高官を新たに任命している
アショーカはこのように、だるまを手段として広大な帝国の統一を
維持しようとしたのである
しかし現実は、高い理想の存続を許さなかった
多くの歴史家は、ダルマの政治が軍事力を弱体化させたため
後継の王たちに帝国の維持を不可能とさせ
内部崩壊と西北辺境からの異民族の侵入を招いたとみている
仏教を保護する
改宗後のアショーカは、まず仏塔建立の大事業に着手した
ブッダの死後、遺骨(舎利)は八国の塔に納められたが
アショーカはそれらの塔から遺骨を取り出し
8万4000の塔を建ててそのなかに分納したという
つづいてアショーカは、高僧に導かれて仏跡巡排の旅にでた
それはブッダ誕生の地に始まり、成道の地、主要な滞在地を経て
涅槃の地にいたるものであった
今日では、考古学的調査の結果、アショーカが実際に
いくつかの塔を建立したことがわかっており
またブッダ誕生の地を訪れたことを記念して王自身が
立てた石柱と碑文もみつかっている
さらにアショーカは、仏教教団が教義の理解をめぐって
分裂している状況を憂いて、高僧たちを集め仏典の編集の
集会を開かせたとういう
このいわゆる第三結集によって正統と認められたのは
今日の南方仏教(上座部)の教理であった
しかしこの結集の伝説は南方伝承のみにつたえられるものであるため
史実かどうか疑われている
アショーカの晩年は不幸であったらしい
伝説によると、王は仏教教団に十億金を寄進する目標をたてたが
達成直前に重病にかかった
不足分の寄進をしようとしたのであるが
国庫の減少を心配した大臣が、皇太子とはかって王を幽閉してしまった
自由に布施できなくなった王は、食卓に並べられた
黄金の食器、銀の食器、銅の食器をつぎつぎに布施し
最後には瓦器で食事を供されるにいたった
悲運をなげいた王は、手中にのこったマンゴーを首都の
僧院に送った後、没したという
歴史家のなかには、こうした伝説を手がかりに
アショーカ王が晩年に支配権を失ったこと
老齢の王をめぐり宮廷内に陰謀が渦巻いたことを推測する者もある
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